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【雪おこし】


「最初は、霜柱が立つんじゃ。それから、氷が張って、雪おこしが鳴ると、大雪がくるんじゃ」

 雪の積もった日には、今はダム湖に眠る父の故郷奥越の山里の冬の話が始まる。

「雪おこし?雪を起こして連れてくるの?」

「そうじゃな、そういう意味じゃったかな」

「雪おこしが鳴るって、雪雲を運んでくる北風の音のこと?」

「いや、雷じゃ」

「雷?冬に?」

「そうじゃ、昼も夜中も、いつでも光って鳴るんじゃよ。それが、どえらい稲光でな、がらがらがらーって鳴るんじゃ」

父は目を閉じると、何やら思い浮かべるように話を続ける。

「そんでな、雪おこしが鳴ると、雪荒れ七日というてな、大雪になるんじゃよ。雪の雲は、どんよりした灰色でな、低くて厚くて。そんな雲が、白鳥の方からもくもくと山を越えて、穴馬に降りてくるんじゃ」

 父は、ひと呼吸おいて、お茶をすすった。

「じじって、わかるじゃろか。わしのおやじじゃ。じじはな、雪おこしで、命拾いしたんじゃよ」

 父の父―じじ、すなわち私の祖父は、山里の村の診療所の助手をしていた。

人の死を常に見ていたからか、

「あの世なんてありゃせん。死んでしまえば、そもそっきりきのこっぱじゃ」

と、豪語していたらしい。

「ばち当たりじゃ」

しっかりもののわりには迷信深いじじのかか、父の言うところのばば、つまり私の祖母は、そんなじじを呆れながらも心配していたらしい。

 それは、冬の最初の雪が降り積もった頃のことだったそうだ。

勘の鋭いところのあったばばは、その日、「雪のにおいがするで早う帰ってくるように」と、じじに告げた。

じじは、「雪のにおいなんぞ、ちいともせんわ」と生返事で、日暮れまで仕事をして、いつも通りの時間に診療所を出た。

診療所から家までは二里ほどで、じじはかんじきを履いて、雪に沈まないように、ひょいひょいと通いなれた道を家へ向かって進んでいた。

ところが、振り返っても診療所の灯が見えなくなった頃から、足が重くなってきた。

雪道の二里は、歩くのにも力を使う。

さっきまで晴れ渡っていた星空を、いつのまにか雲が覆っていた。

月明りも星明りの道しるべもない雪の夜道は、感覚を狂わせる。

 じじは、足を止めて腕組をした。

「こりゃ、だしかんな」

 そうつぶやいた時だった。

 なにかきな臭いものが鼻の奥を突いた。

 と、閃光が天を貫いた。

 闇夜から真昼間へ一瞬の転換。

 稲光に雪闇の広野が照らされ、村はずれの集落のばばの実家が見えた。

 閃きの後に、どーん、っと雷鳴が轟いた。

 それきり、辺りは再びしーんと深い闇に包まれ静まり返った。

 

 じじは、今見た家の方角を見失わないうちにと、力を振り絞って歩き出した。

そして、ばばの実家でカンテラを借りて、吹雪く前にと家路を急いだ。

 ようやくの思いでたどり着き、じじが家の戸を開けると、ばばが炙ったばかりの餅花を持って立っていた。

とちの実を突いたり、梅紫蘇の汁で染めた餅を、小さくちぎって麦わらの枝に刺した餅花は、囲炉裏で炙ると美味い。

 差し出された餅花に思わずかぶりついて、その香ばしさにじじは、ようやく人心地ついた。

 ばばが、じじからカンテラを受け取りながらつぶやいた。

「雪おこしじゃったな」

「そうじゃ。雪おこしじゃ」

 ばばは、カンテラの脇に彫られた屋号を見ながら

「こりゃ、雪荒れ来る前に、返しに行ってこにゃならんな」

と、じじにきくとでもなく、ぼそぼそと言った。

「ぬしが呼んだか」

「なんのことじゃ」

「雪おこしじゃ」

「そんなもん、呼べるかいな」

 ばばが笑った。

「ばちが当たったんじゃろ」

「そんなもん、当たるかいな」

じじとばばは、顔を見合わせて、どっと笑いこけた。

笑いながらじじは、まぶたに焼き付いた、雪おこしの見せたばばの実家の光景に、今さらながら身ぶるいした。

じじは、父に、雪おこしが起きたのは、じじを心配するばばの一念と、追いつめられたじじの助かりたいという一念が通じ合って、念の力が大気を震わせたのかもしれんな、と、いつものじじらしくない、およそ科学的でないことを、しみじみと言っていたとのことだった。



【人玉狩り】


 死にかけている人がいると、子どもらは、こそっとその家の周りに集まった。

 現代であれば、けしからんことであったかもしれない。

 けれど、その当時は、生まれるのも家、病に伏すのも家、老いるのも家、亡くなるのも家。

 人が生きて死んでいくという自然が、身近にあった。

 だから、死んだあとも人の魂が家におるのか、子ども心に気になるのは当たり前のことだった。

 人玉が飛んでいると、皆で見に行くのも、いつものことだった。

 人玉とは、墓場に出没する人間のからだから抜け出た魂、すなわち人魂のことである。

 祖父からきいたという父の話によると、人玉とは、長患いで肉体が変化すると、燐《りん》が人から出てきて、それが塊になったものだという。

 生きている間は、しっぽがついていて、遠くまではいかずに、家の辺りを漂っている。

 霊感があろうがなかろうが、誰もが見ることができたとのことだった。

 闇夜に灯る、青紫の仄暗い火が、ふわふと飛んでいくのを一度でも目にすると、この世のものではないな、と、誰しも思わずにはいられなかったそうだ。

 

 その日は、家から人玉が出てきた、と誰かが叫んだ。

 その人玉には、しっぽがついていなかった。

 黄昏が迫る、黒く影になった山からの風に吹かれて、心もとなさげに、ふわりふわりと、人玉は飛んでいった。

 子どもらは、わらわらと出てきて、てんでに棒を握りしめ、みなで追いかけていった。

 人玉狩りは、娯楽の少ない山奥では、刺激的な遊びだった。

 子どもらは、棒を振り回して人玉を追い回した。

 追い回しているうちに、夕闇が濃くなり、風が弱まってきた。

 

 子どもらは、動きの鈍くなった人玉に追いつくと、思いきり棒で打ち落とした。

 人玉は、地面に落ちると、うじうじうじと、未練ありげに泡になってうごめいた。

 しばらくの間、子どもらは、なんとはなしに見入ってしまい、誰ひとり動こうとはしなかった。

 「動けなかったんじゃ」

 祖父は、祖母にこそっと打ち明けたそうだ。

 その話をきいた祖母は

「なんで、そげなかわいそなことするんじゃろ」

 と、眉をひそめたそうだ。

 思い出したかのように、蝉が鳴き出して、子どもらは、我にかえった。

 

 動けんでいた自分らが情けなくて、悔しくて、子どもらは、癇癪をおこしたみたいに、落ちた人玉のはじけ散った泡を、これでもかと棒で打ち据えた。

 蝉はじき鳴き止んで飛び去った。

 薄暗さを増した辺りには、子どもらの地面を打ち据える音だけが、虚しく響いていた。

 棒から伝わってきた、べしゃべしゃした泡の感触を打ち消そうと、延々と人玉を叩いていたのだけれど、その感触はなくならなかったそうだ。

 翌日、その家の若い嫁さんが、肺患いで昨晩亡くなったとの話がまわってきた。

 嫁さんの実家は、昨日、子どもらが人玉を追いかけていった方角の先にあるとのことだった。

 しばらくして、人玉狩りの仲間の一人が熱を出した。

 風邪をこじらせたんじゃろと言ってるうちに、だしかんようになった。

 だしかんというのは、だめになるということで、それは、人が死ぬことだ。

 子どもは元気の塊みたいなもんだから、誰も祟りなどとは考えもしなかったそうだ。

 ただ、その家の嫁さんは若かったから、一人では寂しかったんじゃろと、誰ともなく口の端に乗せて、うなずき合っていたとのことだった。



【藪から睨み】


 山里に住んでいるのは、人ばかりではない。

 山の主の風格たっぷりの熊や、猪。

 臆病風にいつも吹かれている禽獣たち。

 田畑を荒らし、人家の食べこぼしに顔をつっこむ狐狸の類。

 都会に住んでいると、つい、人家をうろつくなつっこいけものであれば、愛玩動物にしようという気を起こすかもしれない。

 けれど、野生は、人に馴れることはない。

 山仕事をしているものは、それをきちんとふまえている。

 気を許したら、こちらが、やられてしまう。

 うかうかと人の領分に入り込んできたものがあったら、仕留めて腹に納めるのが当たり前のこと。

 その逆もまた然り。

 野生のものとのつきあいを、祖父や祖母から、そんなふうに父は聞かされていたとのことだった。

 さて、祖父は、医者の助手の他に、炭焼きもしていた。

 にぎりめしにたくあん二切れのお決まりの弁当を持って、雪に閉ざされないうちは、現金収入のあてにと、炭焼きをしに山に入っていた。

 丸一日、炭焼きの他にも山仕事を済ませて、帰る頃には、辺りは暗くなりかけているのが常だった。

 深い山間(やまあい)では、黄昏時は短く、瞬く間に辺りは暗くなる。

 夜になったら、山のものたちの領分になってしまう。

 そうなったら、こちらが領分荒らしになってしまう。

 下草をかろうじて切り払っただけの山道は、木の根や岩や、切り払い損ねた蔓草が邪魔をして、転ばぬように足を進めるのも難儀なことだった。

 昼間の作業の疲れもあって、祖父が休もうかと思ったその時だった。

 獣の鳴き声が、低く地を這うように響き渡った。

 そして、べろん、べろん、と、冷たい手のようなものが、祖父の顔を下から上へと撫で上げた。

「なんじゃ、何もんじゃ」

 祖父は背筋がぞっとして気味悪かったが、それを気取られたらやられると思い、そのまま足を止めずに、ひと息に家まで走り帰った。

 祖父は、その夜、囲炉裏端で晩酌をしながら、

「あれはなんじゃったんだろうな」

 と、皆に話してきかせた。

 祖母が、

「そりゃ、けものに化かされたんじゃなかろうか」

 と言った。

「化かされるようなことはせんが」

 祖父が答えると、

「昼間、畑のいもを掘り返していたきつねを、棒っきれで叩いて追い回したんじゃ」

 と、父が恐る恐る告白した。

「きつねやいのししなんぞのけものは、人を敵じゃと思うとるから、木の陰や藪に、こそーっと、隠れとってな、睨んどるんじゃ。眼力で、人を、遠ざけようとしとるんじゃな。その藪から睨みをな、勘の鋭いもんは感じて、ぞくぞくーっとするんじゃよ」

 

 祖母は、番茶をすすりながら、皆に言い聞かせるように、ゆっくりと語った。

 その夜は、祖父も、父も、悪い夢をみたわけでもないのにうなされて、よく眠れなかったそうだ。

 翌日、明るくなってから、祖父が同じ道を辿ってみたら、伐り残されていたのか、一抱えもあるすすきが、わさわさーっと、道に垂れかかっていたとのことだった。



【椀貸 膳貸】


 椀貸、膳貸は、父の父、すなわち祖父の村では、ごく普通に行われていたそうだ。

 父が子どもの頃、村の集会場の道場で、法事や祭で人が多く集まる時は、集いの長が半紙に一筆書いた。

 それを、村から離れた山奥の鍾乳洞の入り口に持っていって、岩で半紙が飛ばないように抑えて置いておくと、翌日、半紙がなくなっていて、代わりに必要な数の椀や膳が置いてあったそうだ。

 白馬が現れた、竜宮城につながっていて乙姫様に会ったなどと、奥深く不気味な鍾乳洞については、まことしやかな村の伝説が語られていた。

 道具を貸すという話は、山間の水辺が舞台になることが多いようだ。

 実際は、山に住みついた流れものが山の衆となって、自分たちの手業で道具を作って、食料や日常雑貨との交換を、対面せずにしていることのようだった。

 流れものの常で、気が荒く、中には山賊のような暮らしをするものもいたそうだ。

 父がまだ小学校に入ったばかりの頃のことだった。

 祭の騒ぎに紛れて、お櫃に残っていた飯(めし)をお椀にこそっとよそって、誰だかしらないが、そのまま持って帰ってしまったことがあった。

 祭りが終わって、膳を返す段になって、一客足りないと、大騒ぎになった。

 大人たちは、弱り果てて、借りたお椀に似ているものをなんとか探し出した。

 半紙を置きに行って膳を借りてきたものが、返しに行く決まりだった。

 ところが、その者が行くのを渋ったので、誰が返しに行くかひとしきりもめた。

 村に伝わる話では、借りたものを無くしたり、お礼の品を捧げないと、山の衆が暴れこんできて、家の打ち壊しなど、ひどい目に合わされたとのことだった。

 お椀を無くしたのがばれて、山の衆に仕返しされるのを、皆恐れていたのだ。

 結局、いつもより沢山のお礼の品を持たされて、借りてきた者が返しに行った。

 それから半月ほどは、皆、仕返しに備えていきり立っていたが、なにごとも起きなかったので、常の通りにもどっていった。

 椀貸、膳貸は、その後も続けられたが、貸し出される膳が歪んでいたり、椀の高台が割れていたりと、あまり上等なものではなくなっていったらしい。

 腕の立つ者が山を去ったのか、山の衆のささやかな仕返しなのか、それはわからないままだ。



・・・・・・




――奥越奇譚は、不思議なことや怪奇現象が日常に存在していた父の故郷の山里の実話――


異界とつながっていると言われている洞がある、奥越の山里の実話です。

父の父の時代、戦前の話です。

村医者の助手をしていた父の父、すなわち私の祖父は、迷信を信じない、科学で現象を解明しようとする人だったそうです。

祖父は、信じはしなくても、排除はしない人だったので、不思議な体験をすると、父に語ってくれたそうです。

本作品は、「カクヨム異聞選集 ~本当にあった怖い話・不思議な体験コンテスト~」の最終選考対象作品として選出されました。




 隣りのクラスの双橋樹杏(もろはしじゅあん)は、強く華やかなグループから疎まれていた。彼女が目立たないようにすればするほど儚げなきれいさが目立って、それが華やぐグループの癇(かん)に障り、ますます疎まれるようになっていったのだ。

 中等部と高等部の校舎をつなぐ文化棟に図書室があって、その前の廊下掃除の当番の子たちの話し声が、開け放したドアから室内に流れてくる。

 私は貸出カウンターを拭きながら、あれこれ噂される彼女は多分魅力的なんだろうなと思っていた。自分たちをかわいく見せるのが日々の全てであるクラスメイトたちの心に、ささくれを作るくらいに。


 やがて彼女のうわさも聞かなくなり、私の中での彼女への関心も薄れていった。


 高等部に進み図書委員になった私は、クラスの喧騒を離れ、休み時間はたいてい図書室で委員の仕事と読書で過ごしていた。

 その日、午後は学内の劇場で演劇鑑賞会が行われることになっていて、図書室は返却ポストの取り扱いだけになっていた。

 当番だった私は、誰もいない室内で返却ポストに入っている本の返却手続きをして日誌をつけていた。

「樟桂南(くすのきけいな)さん」

 いきなりフルネームで呼ばれて、私は、図書委員日誌を書く手を止めて顔を上げた。

 鼻先に、ひんやりとした甘い匂いが触れた。

 目の前に艶やかな前髪、そして、見開かれた瞳。


 ライチの甘い香り。


 香水は禁止だけれど、生まれつきの匂いなのかもしれないと思わせる自然さで香りが漂っている。古典の選択授業で習った漢詩に、そういえば、ライチの好きな美女がいたなと、ふと思った。

「誰」

 ぶしつけな近さの目の前の彼女に、私の答えは不愛想だった。

「私、双橋樹杏です、中等部の時、隣りのクラスだった」

 彼女はそう言うと、すっと離れた。

「ああ、え、と、図書室前の廊下、掃除当番の時来てたね」

 彼女は、にこっと笑って頷いた。

「図書委員になりたかったのだけれど、競争率高くて」

 彼女がなりたがっていたのを知っていて、およそ本とは縁遠い子たちが図書委員を独占していたのを思い出した。

「やっと、なれたの、図書委員。これで、樟さんと一緒に本が読める」

「どうして、私と一緒に本を読みたいの」

「樟さん、私の姉から、本のこと教えてもらってたよね」

 記憶を探ると、そういえば、と、思い当たった。

 中学受験の時、塾の他に、受験校の卒業生の学生に家庭教師をしてもらっていた。

 面接の練習や、その学校ならではのあれこれを習った。

 その人を、母は、モロハシさんと呼んでいた。

 私は、ただ、先生と呼んでいた。

 でも、その時に、妹がいるという話は聞かなかったように思う。

「その頃、私はからだが弱くて、空気のいい田舎の祖父母の家にいたの。姉は、大学が忙しくても毎週会いに来てくれてた。でも、家庭教師を始めてからは、だんだん来ることが少なくなっていった」

 私の気まずそうな顔には気づかないのか、彼女は、滔々とうとうと話し続ける。

「家庭教師をしている子が本好きで、ちょっと背伸びになるけどうちにある文学全集を貸してあげてると言ってた。樟さんのことだよね」

 私がうなずくと、彼女はうれしそうに話し続ける。

「私がこちらの家に戻ってきた時には、入れ替わるように、姉は、仕事で海外に行ってしまった。だから、姉とは話すことができずじまい。本棚の文学全集は、一冊抜けているの。ねえ、もしかしたら、樟さん、あなた持っていない」

 私は、あせって、家の本棚を思い浮かべる。

 無事受験を終えて、合格祝いだと先生が、私が気に入っていた全集の一冊を渡してくれたのだ。

「双橋さん、ごめん。その本、今度持ってくる。先生、あなたのお姉さんが、合格祝いにって譲ってくれたの、これは、本当。でも、全集が一冊抜けてるのって、気になるよね」

 彼女の顔が、また、目の前にあった。

 ライチの甘くエキゾチックな香りが、目にしみる。

 瞬きをすると、香りの粒がはじけて、私を惑わせる。

「いいの。姉が差し上げたものなのだから。樟さん、あなたのもとにあることがわかっていれば、それで、いいの」

 さん付けで名字で呼ばれるよそよそしさの合間に、ぐっとせまってくる不安定な距離感。

 戸惑いを取り去ろうと思い、私は彼女に提案する。

「桂南、でいいよ」

 彼女の顔に浮かんだ笑みが、表情の輪郭をはみ出して、押し寄せてくる。

 思わず、息を飲む。

「ありがとう。じゃあ、桂南、私のことは、樹杏って呼んでね」

 彼女は、それから、

「ライチの香り、私、するでしょ。香水じゃないの。姉がライチが大好きで、一緒に食べているうちに、自然と香るようになったの」

 と告げると、軽く手をふって、図書室を出ていった。

 すっと微かな音がして、ドアがレールをすべり、元にもどった。

 白いカーテンが、1テンポ遅れて、ドアの前で揺れた。

 

 それから、図書室で一人本を読んでいる私の左隣りが、彼女の定位置になった。

 同じクラスではないということがかえって気安さとなって、読書の合間に会話を交わすようになっていった。

 

 最初の贈りものは、姉から送られてきたもののお裾分けだと言って手渡された、スミレの花の砂糖漬けだった。小さな楕円形の缶のふたに繊細な筆致で描かれたスミレの花束の絵が、ずいぶん少女趣味に思われて、家庭教師時代の彼女の姉のイメージとはかけ離れているような気がした。もちろんそんなことは言わずに、礼を言って受け取った。

 クリスマスプレゼントは、金と銀のリボンが花のように結ばれた焼菓子だった。

 彼女の視線に促されるままリボンをほどき中をあけると、アイシングとアラザンとチョコスプレーで彩られたクリスマスモチーフのクッキーが詰められていた。

 かわいらしさに和むと、彼女の視線が一段強くなったようで、私はその場でヒイラギの付いたベルの形のクッキーを食べた。シナモンがきいていて大人の味だね、と私が言うと、彼女は、作ったの、とうれしそうに言った。それから、姉に教わったレシピなのだと、作り方を一つ一つこと細かに説明し始めた。手作りと聞いて、なぜか口の中が、ひやり、とした。

 バレンタイン、ホワイトデー、誕生日と、次々と贈られるプレゼントは、最初のスミレの花の砂糖漬け以外は、全て彼女の手作りだった。

 プレゼントがあまりに頻繁になってきて、私は息苦しさを覚えるようになっていた。

 図書室に並んで本を読む時、何げなさを装って椅子をずらすと、彼女は位置を変えずに瞬間的に頬を赤らめた。

 体質で火照りやすいのだと、言いわけのようにつぶやくのが聞こえた。

 近寄っていないのに、熱さは増している。

 そんな気配の圧が、怖かった。

 だから、正直、親の故郷に引っ越すことになったときいて、ほっとした。

 それからの私は、彼女にやさしくなった。

 いなくなってしまうのなら、親切にして思い出になってしまおう。

 そんな風に思い、いい人を演じることに徹した。

 それが、いけなかったのかもしれない。

 花びらを傷めないようにそっと指でつまむような扱いに、彼女は自分の気持ちが報われたように思ったのかもしれない。


 その日、最後の日。


 窓の白いカーテンを背景にして立っていた彼女の横を校庭からの強風が吹き過ぎた。ほこりが入るからといつもは閉められている窓が、その日は換気のために開けられていたのだ。

 風は彼女の艶々とした長いまっすぐな黒髪を舞い上げ、小柄な彼女を覆い隠してどこかへ連れ去ってしまいそうに膨らんだ。

 私は、思わず駆け寄って、彼女を抱きとめた。

 腕の中の彼女は、思いのほかしっかりとした温かな肉体を持っていて、決して現実から連れ去られはしないのだとわかり、ほっとした。

 私の安心が伝わったのか、彼女の両手がおずおずと私の背にまわされた。

 力強く抱きしめられて、息がとまりそうになる。

 臆病なばかりだと思っていた小動物が、追い詰められて、ひと噛みで肉片をちぎるように持っていくけだものに変化したような凶暴な力だった。

「は、なして」

 ようやく出た声はかすれて、ふいに風が止んだ。

 風がおさまった後、彼女は力を抜いて、頭を私の肩にのせてきた。

 その時には、もういつもの儚げな様子にもどっていた。

 

 翌日から彼女は欠席となり、そのまま引越してしまった。

 最後に一目会おうと、彼女の家に駆けつけると、私服姿の彼女がうれしそうに駆け寄ってきた。

「会いに行くから」

 思わず知らず口をついて言葉が出ていた。

 確証のない約束の言葉なのに、彼女はうれしそうにうなづいた。

 うなづいた彼女の輪郭が、くっきりと光った。

 彼女は、両親の待つ車に乗り込み、名残惜し気に振り返りながら去っていった。

 それから、日々に、同級生たちの適度なにぎやかさとそれなりのつきあいの気楽さが戻ってきた。

 これが本来の日常だったのだと、私は開放感に浸った。

 そして、彼女のことは、一時期の思い出になっていった。

 それを初めて見たのは、高三の夏休みのことだった。

 受験塾の合宿で疲れ果てて帰ってきた日の夜だった。

 その時、私は、金縛りにあっていた。

 子どもの頃よくなっていた金縛りは、成長とともにならなくなったのだが、その時は疲れているのだろうと私は思っていた。

 

 窓ガラスと白いレースのカーテンの間でふわふわとゆれているシルエット。

 それは、もどかしそうに口の辺りを動かすのだけれど、声は聞こえない。

 ライチの甘い香りが鼻先をかすめた。

 私は、ふいに、思い当たった。

 白いレースのカーテンに浮かぶのは、たぶん、樹杏だ。

 約束の催促に来たに違いない。

 彼女の香りを吸い込むと、私は、ゆっくりと息を吐いた。

 彼女の全てを、自分の中から追いやるように、長く深く、息を吐ききった。

 すると、金縛りが解けた。

 私は起き上がると、まだシルエットがゆれている、カーテンと窓の間に手を差し入れてみたが、一瞬で輪郭が崩れ、手のひらにぴしゃんっという音とともに、冷たい感触だけが残った。

 手のひらには、小さな水たまりができていた。

 手のひらにかいた汗どころの騒ぎではない量の水。

 手のひらに残された、小さな水たまり。

 のぞいたら、彼女の目にのぞき返されそうで、私は思わず顔をそむけた。

 

 霊感があるわけでもない私は、夢うつつで感じたものかもしれないと思いつつも、実感の伴う悪夢のような体験に身震いした。

 あまりに気になって受験勉強に手がつかず、私は、彼女に近況を伺う手紙を出した。

 電話をするのは、気が引けたのだ。

 ほどなくして、絵葉書が送られてきた。

 

「会いたい」


 さらりと書かれた文字は、筆圧の感じられない薄いものだったが、見覚えのある彼女の筆跡だった。

 消印は、彼女の引越していった町のものだった。

 会いに行くという約束を守ることができなかったことを、謝りに行かなければならないと思った。

 彼女の姉から譲り受けた文学全集を持って。

 この本を手渡して、彼女と過ごした日々は、かけがえのないたいせつなものなのだと伝えよう。

 あの頃は彼女の純粋さに気圧されて戸惑ったけれど、いい思い出だと伝えて区切りをつけよう。

 旅立つ前に、母から、家庭教師をしてもらっていた樹杏の姉の話をきいた。

 彼女は姉と言っていたがそうではなく、下宿していた遠縁の娘さんとのことだった。後に仕事先の海外で結婚したけれど、不慮の事故で亡くなったと人づてに聞いたと話してくれた。

 亡くなったのは、彼女が私に話しかけてきた頃だった。

 最初、彼女が話しかけてきた時の奇妙な距離感は、姉のように慕っていた人を失った不安定さからのものだったのかもしれなえい。

 その人の喪失を、彼女は受けとめきれなかったのだ。

 だから、少しでもその人の痕跡を求めて、私に辿りつき、縋すがりついた。

 その人からもらい受けた本を大切にしまってあったことを知って、きっと彼女は、私をその人を慕う同類とみなしたのだろう。

 もともとからだの弱かった彼女は、自分の強い気持ちの塊かたまりを、眠っている間に引き留めて置くことができないのかもしれない。

 だとしたら、このままにしておくわけにはいかない。

 脳の作用なのか霊魂の浮遊なのかわからないけれど、放っておいたら、彼女は自分を保っていられなくなってしまうに違いない。

 彼女を、もう、やって来られないようにしなければ。

 そして、私は、今、彼女のいる奥深い山の町へ向かう電車に乗っている。

 ようやく前方にぽつんと光が灯り、どんどん近づいてくる。

 トンネルを抜けたら、すぐに終着駅だ。

 私は網棚の荷物をとろうと立ち上がった。

 上着の端にひっかかって、窓枠に立てかけてあった絵葉書が舞った。

 拾おうとかがむと、慌てていたのか、指先を切った。

 にじんだ血は、「会いたい」の文字に沁みてにじませた。

 左手で絵葉書を拾い、血のにじむ右手の指を吸いながら立ちあがると、ついさっきまで見えていた前方の光が消えていた。

 気のせいだと頭を振って腰かける。

 だいじょうぶ。

 ここには白いカーテンはない。

 彼女はやって来ない。

 椅子から伝わる規則正しい電車の振動に誘われ、まぶたが重くなっていく。

 と、私の上に、ふわり、と何かが掛けられた。

 

 左側が熱い。

 肩が重い。

 閉じかけた目の端に見えたのは、黒髪と白。

 光に彩なす白いレースカーテン。

 覚えのあるライチの香り。

 膝にのせた文学全集が、湿り気を帯びたように重くなった。

 重石のように、私を動けなくする。

「やっと、来てくれた」

 ささやく声は、紛れもなく、彼女のものだった。

 声を出そうとするのだけれど、のども舌もくちびるも固まってしまって動かない。

 

「桂南が来るって言ったら、姉が、とても喜んでくれて。樹杏のことを、たいせつに想ってくれるお友だちができてうれしいって」

 もう亡くなっているはずのその人のことを、彼女は嬉々として語っている。

 漂ってくるライチの香りは、熟して饐えて、腐れた果実の不穏さを運ぶ。


 もしかしたら、この彼女は……


 私は、金縛りを解こうとした時のように、思いきって腐臭を吸い込んだ。

「苦しい、やめて、あなたが空気を全部吸ってしまったら、私、息ができない」

 凄まじい怨嗟の声が耳を汚し、脳をゆさぶり、全身を凍った毒の棘で刺されているかのようだった。

 その声は、ずいぶん大人びていた。

 むせかえりそうになるのをこらえて吸いきってから吐き出すと、痛みがすっとひいていった。

 文学全集が膝から滑り落ちた。

「すみません、荷物が網棚から落ちてしまって」

 女性の声がして、私の肩にかかっていたレースのカーテンをするすると巻き取っていった。


 現実が戻ってきた。


 左側の席を見ると、そこには、小さな水たまりがあった。

 触れようと手を伸ばしたら電車が大きく揺れて、はずみにゆがんだ水たまりから、水滴は散ってなくなってしまった。


 やがて、電車は、終点に着いた。


 電車を降りると、物憂げなライチの香りが漂ってきた。

 香りに振り返ると、ホームの端に彼女が立っているのが見えた。

 私は、本を両手で高く掲げて、振って見せた。

 ライチの香りを、ふり払うように。

 スモーブローを初めて食べたのは、図書館のカフェだった。 

 そこは、カフェめぐりが共通の趣味で知り合った彼とのはじめての小旅行で訪れたところだった。

 北欧スタイルのオープンサンド、スモーブロー。北欧のサンドイッチでよく見られるのがオープンサンドタイプだと知ったのは、子どもの頃に読んだムーミンやピッピなどの北欧の児童文学からだった。

 スモーブローを食べられるカフェが大阪にオープンとの情報を知り、露美は、迷わず旅のプランにそこを加えた。 インテリア雑貨などで注目されるようになって、今ではライフスタイルの定番の一つにもなりつつある北欧スタイル。ただ、食に関しては、まだ体験できる場所はそう多くなかった。 

 露美は、京都のブックカフェめぐりの後に、そのカフェへ寄りたいと彼に告げた。 就職して資金をためて、いずれカフェを開きたいと思っている露美は、流行中のものから流行の兆しのあるものまで気になるカフェがあれば、旅先でも足を運びたかったのだ。 

 図書館にあるカフェというのも魅力的だったが、そのカフェのある図書館自体も魅力的だった。以前関西の友人に見せてもらったその図書館のある場所大阪中之島のライフスタイルマガジンの特集記事を見て露美は興味を持ったのだった。

 ――橋を渡る人の「街事情」マガジン―—そう冠された『月刊島民 vol.82』の特集記事「中之島図書館はすごかった。」には、歴史、建築、書庫、本と人というテーマで、大阪市立中之島図書館の「すごさ」について紹介されていた。露美はナカノシマ大学のホームページからその号のPDFをプリントして持参していた。携帯機器で呼び出せばすぐに情報を手にできるが、なぜか紙媒体で持っていたかったのだ。


 旅行の最終日の午後は、別行動にしようとの露美の提案に、彼も同意してくれた。 彼は、古書店を見てまわるからと、ひと足先に大阪へ出て阪急古書のまちへ、雑貨も扱っているというカフェをいくつか見ておきたかった露美は、地下鉄とバスと徒歩を駆使して、京都市内をまわった。

 うまい具合に特急に乗ることができて、京阪淀屋橋駅で降りて地上へ出ると、露美は地図を確認してから、堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島へ渡り、川沿いのみおつくしプロムナードを進んでいった。 途中、市役所のある通りへと左に折れると、右手に優美なルネッサンス様式の建築が現れた。  明治時代に開館し、国の重要文化財にも指定されている厳かな知の神殿、大阪府立中之島図書館。  

 待ち合わせの場所だ。 

 「ごめん、待った」 

 正面玄関の階段に腰掛けている彼の元へ、露美は駆け寄った。

 「ギリシア神殿みたい。この柱、すごいね」 

 露美は、正面玄関にすくっと伸びて並んでいる柱を見上げて驚いた。

 「コリント式列柱だって」 

 待ったとも、こっちも今来たとことも言わずに、彼は携帯をいじって情報を呼び出している。 露美は、いったん正面玄関から離れて、道をはさんだ市役所の方へさがると、建物の全体像を写した。

  黄昏時の図書館の窓に灯る明かりは、正しく人の道を照らす知の宝庫の雰囲気を漂わせている。 

 「近代レトロ建築遺産だね。ここでだったら、読書も勉強もはかどりそう」 

 露美は写真を撮りながら、スマートでモダンなつくりのカフェもいいけれど、古い建物をリノベーションしたカフェも、雰囲気があって素敵かもしれないと思った。 

 ひとしきり写真を撮り終えると、二人は、ギリシア神殿を思わせる正面玄関から中へ入り、教会を思わせるドーム状の天蓋が荘厳な中央ホール、そこに据えられた世界の賢人たちの彫像、バロック様式の館内を見学しライブラリーショップをのぞいてからスモーブロー専門店が運営するライブラリーカフェへと向かった。 

 モーニングやランチは混むけれど、夕方からはゆったりできるという事前情報の通り、店内には小人数のグループとが一組入っているだけだった。 グループの話し声は軽やかな小声の関西弁で、店内が静まり返ってないところが、居心地よさそうだった。 


 川面に映る灯が美しい窓際の席に上着と荷物を置くと、二人は、店の奥のサイドボードに置かれたデトックスウォーターのタンクへ向かった。 

 途中、彩り鮮やかで繊細な小ぶりのスモーブローのスターターが並ぶショーケースに目を奪われたが、まずは空気の乾燥でからからののどを潤すのに、フレッシュな野菜やフルーツが漬けこまれているデトックスウォーターが欲しいと露美は思った。

 からだの中からきれいにするというコンセプトが受けたのか、季節のフルーツに野菜、フレッシュな香りのハーブやスパイスなどがブレンドされたビューティードリンクとして、デトックスウォーターは瞬く間に女性に大人気となった。 一方で、ジャーの衛生管理が気になるという声もあがり、定番メニューにするには一般のカフェでは難しそうではあった。 それでも、水の中のカラフルなフルーツや野菜たちは、見ているだけでリラックスできる、 


 心のエナジードリンクだと露美は思う。 レトロな空間に、スマートな知性の感じられる北欧の食の文化。 古いにしえからの積み重ねと、流行を捉える今この時とのコラボレーション。図書館とはどういう場所なのか、改めて考えさせてくれると、露美は感心した。 


 「ピーマン入りの水は、おれはパス」 

 と、唐突に場の空気がさざ波だった。 

 「ピーマンじゃない、パプリカだよ」 

 露美は答えながら、タンクから二人分のデトックスウォーターを注いだ。

「赤いピーマン、黄色いピーマン」 

 とりあえず席についたものの、彼はグラスに口をつけずにぶつぶつ言っている。 

 「試しにひと口飲んでみたら、からだにいいよ」 

 一人暮らしの学生が陥りがちな野菜不足の食生活の乱れを心配してることをにおわせて、露美はすすめてみた。 仕方ないなという素振りで、彼は、グラスを手にして口元にもっていった。

「ピーマンのにおいがする。却下」 

 彼は飲まずにグラスを置いてしまった。

「野菜って、もさもさしてるじゃん、なんか苦手でさ。野菜ジュースも青くさいし、あ、これもね」 

 「じゃあ、スムージーはどうかな。ブレンド次第で、野菜ジュースよりは飲みやすくなるよ」

 「めんどいのはパス。それから、手作りもなんか味が一定しないからパス。肉がいいな、ここ肉あるかな」 

 家政学部で栄養学を専攻している露美は、食へのこだわりがつい出てしまう。それに、両親も弟も味覚の幅が広いので、他人の食べ物の好き嫌いについては驚くことが多かった。ここで言い合っても不毛かもと、露美は、一気にグラスを飲み干して 

 「ちょっとショーケース見てくるね」

 と、グラスを遠ざけ携帯で何やら検索を始めた彼に告げて、メニュー代わりに品物の並ぶショーケースへ歩いていった。

  ショーケースには、スターターと呼ばれる小ぶりのスモーブローが並んでいた。

「最初は、魚、デンマークではニシンから、だったっけ」

 下調べした記憶を辿りながら、露美は一品ずつ視線を移していく。

「黒パンにニシンの酢漬けにはチャイブを散らして、サーモンムースにはディル。ウナギの燻製にはスクランブルエッグを合わせるから、ここにもタマゴと合うハーブチャイブかな。それともビネガーに漬けたチャイブの紫の花びらをアクセントにしようかな」 

 並んでいるスモーブローの味をイメージしながら、将来のカフェコンセプトを北欧風にした場合のメニュー用に、素材の組み合わせの基本を頭に入れる。 

 「やんわりと個性を主張するタラゴンは、クリーミーなソースにも負けないから、タルタルソースに混ぜてチキンに合わせようかな。フィーヌムゼルブのオムレツは、小さなピンクのゆでた小エビの上にのせて、チャービルを飾ろう。ムースやチーズ用にLP盤のような丸くて固いパンのクネッケも用意しないとね」 

 ここのメニューそのままというわけにはいかないので、アレンジを加えてオリジナルメニューを想像する。  味のイメージを展開させるのを、露美は楽しんだ。

「甘いのもメニューに加えたいな。北欧にこだわるなら、ベリーを揃えないと。ラズベリー、ブルーベリー、クランベリー、リンゴンベリーにクラウドベリー。日本では入手しずらいのもあるけれど、ベリー農家さんを当たってみよう。たっぷりのホイップクリームに、森の摘みたてクランベリーの赤を散らしたら、雪に咲いた花畑のようにきれい」 

 次から次へと浮かぶイメージは、露美の心を浮き立たせる。

 「カフェで扱うドリンクは、市販のハーブコーディアルを炭酸水や水で割ってもいいけれど、ここはフレッシュハーブの勢いを取りたい。ディルは北欧料理には欠かせないから、小さくてもいいからハーブガーデンを作ろう。となると、やっぱり、ハーブガーデンが必要になる」 

 露美は、ちょっと考え込む。

「カフェの運営と畑仕事、両立できるだろうか、きびしいかもしれない。人手がいるな。信頼できる人。ああ、そうだ、デトックスウォーターは、どうしよう」


 さっきの彼とのやりとりが、俄かに苦い思いとなってよみがえってきた。

 彼とつき合い出して初めの頃は、好き嫌いの多い彼の味覚を攻略するのが楽しかった。 彼も、最初は面白がっていた。 つきあい初めはお互いに歩み寄ってるから、気にならないのだ、いろいろと。  そういえば、こんなこともあった。 彼はタケノコごはんにのってる山椒の葉を、器用に箸でつまんで、露美によこす。香味野菜が苦手なのかと思いきや、ガーリック風味は大好き。和食の小鉢の菊の花を見て 「食べるものじゃないだろ、花は見るものだろ」 と箸をつけない。花といえば、菜の花のおひたしも残していた。「花とか、食べられないもん使うなよ、なんだよ、このねぎ坊主みたいなの」 「残念でした、チャイブの花は食べられるの。ズッキーニの花だってフリッターにしたら美味しいの」 「フリッター? 天ぷらだろ。岩塩ふったら、まあまあ食べられるな」 カフェ巡りではあやしげな路地裏にまで冒険するのに、食には意外に保守的な彼との、そんなやりとりも楽しかったけれど、いつしかそれがエスカレートして、いつのまにか、露美は、彼の味覚を支配しようとしていたのかもしれない。それでは、敬遠したくもなる。 


 と、思いを巡らす露美の目に飛び込んできたのは、一風変わったネーミングのスモーブロー。 


 ――獣医の夜食―― 


 ビーフハムに、レバーパテ に、コンソメのジュレ。ちょっと猟奇なジョークのようだ。申しわけ程度に飾られた輪切りのレッドオニオンとスプラウトは、肉の存在感を演出している。

 「肉、だね」 

 露美はそうつぶやくと、ショーケースのディスプレイを記憶して、席にもどった。席にもどると、彼のグラスが空になっていた。

「ピーマン、飲めるようになった」

 あっさりとした口ぶりで言うと、彼は、二人分のグラスを持って立ち上がった。

「おかわりは、ピーマンじゃない方でいいよな」

 パプリカだけど……と言いかけて、露美はこらえた。

「あのね、獣医の夜食っていうのがあるんだけど」

「獣医の夜食……それ、食えるの」

「燻製器を買ったから、うちでスモークレバーを作ってパテを作れば、木くずの香りが良い風味になって臭みを消してくれると思う。ビーフハムはあまり市販されていないからパストラミビーフを代用して、コンソメのジュレはビーフコンソメから作ることにして。肉+肉+肉のスモーブロー。どう、食べてみたい?」 

 露美のいつもの一方的な説明に、彼は呆れたような顔で立っている。 

 我に返って、露美は、慌てて両手を口に当てた。


 ――ああ、また、はりきりすぎてしまった。めんどいって思われちゃった―― 


 露美が落ち込みしょげかえりそうになった時だった。

 「じゃあ、肉よろしく。楽しみにしてる」 

 彼は笑うと、両手に持ったグラスをカチンと合わせて、笑ってみせた。それからさっと歩み去っていった。そうだった。こじれかけた時は、いつだって、彼から歩み寄ってくれたのだった。


 ――信頼できる人手は、案外そばにいるのかも―― 


 露美は、まぶたに刻み込んだ彼の笑顔にうなずいた。





参考文献

『北欧 食べる、つくる、かわいいと暮らす』 三田陽子著 辰巳出版 2015年4月1日

『コーヒーとパン好きのための北欧ガイド 改訂版』 森百合子著 スペースシャワーブックス 2016年4月25日

『月刊島民 vol.82』 江弘毅(編集集団140B)・月刊島民プレス編 月刊島民プレス 2015年5月1日






「先輩、凪田(なぎた)先輩」 

 かけられた声に振り向くと、大学時代の文芸サークルの後輩貝原沙羅(かいばらさら)が、ミュージアムショップの袋と、丸めたポスターを抱えて立っていた。 

 世田谷文学館のゆったりとしたエントランスホールで、所在なげにうろついていた私を、彼女の声はなつかしさで捉えた。

 「お久しぶりです。夏原ノエ先生の講演会の時は、ご来場いただいてありがとうございました。お礼もそこそこになってしまっていて、申しわけございませんでした」 

 親しみのこめられた礼儀正しさ。 

 私はどう答えたらよいのか迷い、それから、

 「行きたくて行ったんだから、そんな風に言ってもらわなくても」 

 と、無難に受け答えた。 

 「なら、よかったです」 

 貝原沙羅は、にこっとすると話しだした。 

 「これ、今回の展覧会のポスター、もらっちゃいました。図書館で掲示しようと思って。受付の人に話したら、そういう目的でしたらどうぞって。もともと図録を買った人に差し上げてたんだそうです。当初の配布分が終了したんで、そういった掲示がされてなくて。前にもそういうことがあったんで、きいてみたんです。あ、でも、ちゃんと図録も買ったんですよ」 

 貝原沙羅は、ミュージアムショップの袋を掲げてみせた。 

「先輩は、今来たとこですか」

「ん、ちょっと気分転換」

「締切、たいへんですか」

「まあ、そんなとこ」 

「プレコンテストの作品集、読みましたよ。ぺリメニの話、美味しそうでしたね」

「え、そこ」

「はい、そこ、です」

 私は、拍子抜けして、彼女を見つめる。

「そういえば、『放浪記』の林芙美子も、ぺリメニ多分食べてますよね。彼女、勢いと情熱の人だったから、シベリア鉄道に乗って道ならぬ恋を追いかけてパリまで行ったんですよね。旅行記があるんですよ、先輩読みました? 昭和のはじめ頃に、たった一人で、ほとんどお金も持たないで、列車に飛び乗って恋しい人のところに向かったなんて。しかも若気の至りって年頃じゃなかったんですよね。すごいな。希望の灯が、ほのかにでも見えたからって、ひょいっと現実生活から恋愛夢想世界に飛び移ってしまったんですもんね」

 のんびりとした口調で、彼女は、間断なくしゃべり続けている。

 学生時代に較べると、ずいぶん語彙が増えたように思う。

 語彙が増えたというか、身について使いこなせるようになったのだなと訂正する。

 文学部で文芸サークルだというのに、入りたての学生たちは、使いこなせる言葉が決まりきっていた。

 受験勉強で身につけた言葉は、小論文用の書く言葉で、自分の言葉ですらなかった。

それに気がついたら、大学四年間でその言葉のくせを、いったん書く言葉の貯蔵庫にしまっておいて、語る用、創作用の言葉を修得していく。

 それが、彼女は、うまくいったのかもしれない。

 かくいう私も、読書と趣味の創作で培った頭でっかちな言葉つかいだったけれど。 


「林芙美子が、ぺリメニを食べたなんてこと書いてあったかな」

「はっきりとは書いてありませんけど、『下駄で歩いた巴里』の西比利亜の旅のくだりに、それらしきこと書いてありましたよ」 

「岩波文庫だったかな、確か」 

 私は、読書記憶のページをくって、そのくだりを見つけ出す。

「西比利亜の寒さは何か情熱的ではあります。」と記し、シベリア鉄道を一人行く作家は、持参した食料に飽きると(長旅なので自分で調達した食料を持ち込んでの列車の旅)、食堂車で食べたり、売りにきたものを買い食いします。

 その中に、たびたび登場する「ウドン粉」料理。 

「まず、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)、ウドン粉料理(すいとんの一種)、プリン……」

 すいとんの一種という言葉からイメージできるのは、シベリア風ゆでだんごとロシア料理の本で紹介されていたぺリメニ。どちらかといえば、すいとんというより、水餃子のイメージが形としては近い。 

「二箇一ルーブルで買って、肉の刻んだのでもはいっているだろうと、熱い奴にかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。」

 これは、ラム肉でも入っていれば中央アジアの郷土料理チェブレキだろうけれど。もしくは、具無しピロシキ?  そういえば、揚げぺリメニというのもラトビアだったかにあるらしい。

「スープ(大根のようなのに人参を少し)、それにうどん粉の酢っぱいのや、(すいとんに酢をかけたようなもの)、蕎麦の実に鶏の骨少し、そんなものでした。」

 今度のはひらながでうどん粉、そして、酸っぱいとあるのは、中身が塩揉みの乳酸発酵で作るロシア風ザワークラウトのカプースタだからか、それとも、すかんぽ入りの酸味のあるスープでゆでられたからだろうか。

 気になるけれど、それ以上の情報は読み取れない。

 だいたい、小麦粉でなくてうどん粉というのが、昭和初期を思わせて、実際には知らない時代なのに、なつかしさを覚える。実際は、うどん粉は、薄力粉、中力粉、強力粉と分類される小麦粉の中では、中力粉に当たる。グルテンの含有量で分類されるのだが、うどんのこしとぷるんとした弾力がほどよく生まれるのが中力粉なのだ。水餃子を思わせるぺリメニには、確かに、中力粉のうどん粉がふさわしい。

「凪田先輩、今の暗誦、泊先輩みたいでしたね」

 私は、どきりとする。

 無意識のうちに記憶していた文章を口にしていたのだ。

 それも、泊愛久(とまりめぐ)がしているように、没入して。 

「しゃべりながらだと、思い出しやすいから」

 私は、これが記憶探索の自分のスタイルだと言いわけがましく言うと、入場チケットを持ったままの手で、前髪をかきあげた。 

「あ、すみません、もしかして、凪田先輩、これから見るんですか」 

「そう。でも、先にお茶してからって思ってた」 

 執筆の合間の気晴らしに一人でお茶するのがパターンだったが、たまには誰かと話すのもいいかもしれない。

「じゃ、ミュージアムカフェ行きましょ」

 貝原沙羅に言われるまま、エントランスホールを抜けて光の射し込むパティオの向こうにあるミュージアムカフェへ。


 パティオの見える席に座って、ゴジラのいるカフェで二人揃ってケーキセットをたのんだ。

「あれって、着ぐるみだったよね」 

「はい、東宝の砧スタジオゆかりみたいですよ」

「ここは文学館だけど、展示物を見ると、美術館や博物館っぽいとこあるのが、いいな」 

「そうですよね。うちの図書館でも、本だけじゃなくて、テーマコーナーを作る時は、作家の愛用品や、関連文学マップを作って、展示してますよ」

 「うちの」図書館か。 

 職場に愛着があるのだなと思う。

「さすがにグッズの販売はしてないんでしょ」

「そうですね、マップは無料配布です」

 おしゃべりをしているうちに、注文の品が運ばれてきた。紅茶とチーズケーキ。彼女とのおしゃべりには、コーヒーより紅茶が合う。ティーカップにやわらかな陽射し。やわらかなチーズケーキは、さっぱりとおいしい。

「今、図書館の本を使って外国の料理を作ろうっていうイベントを計画してるんです」

「それ、面白そう」

「夏休みに絵本でおやつ、っていうのをやったら大好評で。未就学児向け企画で保護者と子どもでって募集したんですけど、両親だけでなく、おじーちゃん、おばーちゃんも一緒に参加したいって声が多くて」

「私も保護者枠で参加したかったな」

「え、先輩、まさかお子さん」

「違う違うって、保護者枠って言ってるでしょ、親子枠じゃなくって」

「そうですよね、あー、びっくりした」 

 彼女はカールさせた睫毛をしばたたかせた。

「食べる企画って、皆さん、興味持ってくださるんですよね」

「そりゃあ、グルメの話題は、老若男女共通の興味のまとだもの。で、今度も子ども向け企画? 」

「いえ、今度は、大人向け、というか、文豪料理って、今、カフェやイベントであるじゃないですか。その路線で、近代文学作品からって考えてます。凪田先輩の小説を読んで、これだ、って確信したんです」

 自分の小説を読んで発想してくれたんだと思うと、照れくさかった。

「図書館で料理できるの」

「はい、今のとこは、複合施設に入ってるんですよ。地域住民が交流したり、講座を開いたり、カルチャースクールとまではいかなんですが講習会をしたり、映画上映会のできる設備もあるんですよ」 

 熱心な口調の彼女は、学生時代の冗長なしゃべり方ではなくなっている。

 仕事に誇りをもっているのかな、と思い、微笑ましくなる。

 貝原沙羅の勤めている図書館は、複合施設の二階にある。

 二階フロアの全てが図書館で、地下に駐車場と駐輪場、一階は商業スペース、三階に会議室や多目的ルーム、四階にソファとテーブルなどの置かれた共有スペースと、カフェテリア、そして、ガーデンテラスがあり、五階以上が住居スペースになってるのだという。

 カフェテリアには軽食があり、ランチプレートがおすすめだそうだ。ランチプレートは日替わりで、一階に入っているパン屋の焼きたてパンか米屋の塩むすびが選べるのだそうだ。

「ランチプレート、おいしそう、今度食べに行こうかな」

「ぜひ、ランチデートしましょう」

 彼女は屈託なく笑う。

 私は、カフェテリアの画面から、フロアガイドにもどると、同じ階に書店があるのを見つけた。

「一階に本屋さんが入ってるんだ」

「大きな図書館と同じ建物内だと、書店の売り上げが減ったりするのではと思われがちなんですけど、うちに関しては、そうでもないみたいなんです」

「そうなの」

「はい、店長さんとは個人的に顔見知りで、というか、場所が便利なんで仕事帰りにほぼ毎日寄ってて、雑誌や文庫本をよく買ってるんです」

「そっか。通勤経路に本屋さんがあると便利だよね」

「はい」 

 彼女はにっこりすると、話を続けた。

 図書館が入ってから、むしろ売り上げは増えたのだそうだ。

 もともと駅に近いということもあり、通勤客、通学客など地元民の利用者がメインだったが、設備の整った図書館ができたということで、施設そのものへの地区外からの利用者が増えた。

 そして、休日のショッピングや外食のついでに図書館に寄って、貸出期限のきた本を返すついでに、同じ本を書店に立ち寄って購入したり、図書館にはあまり置かれていない雑誌やコミック類、ライトノベル類を購入していったりするのだそうだ。

「とにかく、人の出入りがないことには、あらゆる販売業はなりたたないですよね」

「確かに。人に出入りしてもらって、興味をもってもらって、手にとってもらって」

「そうなんです。隙間産業とか、ニッチとか、個性を売りものにするのも大事ですけど、それを買ってくれる人がいないと、だめなんですよね。趣味ならともかく」

「かといって、自分の個性や技術を安売りするのは、結局その業界全体を安売りすることにつながるから、うーん、一概には言えないと思う」

「わあ、ほんと、そうなんです。今さらって感じですけど、自分がその立場にたってみると、実感します」

「え、図書館は販売業じゃないのに、実感って? 」

「ああ、え、と、イベントの集客のことです。販売ではなくって、営業、ですね。うまく説明できなくて、すみません。なんとなくつながってる感じがして」

 彼女は、ふうっ、とため息をつくと、チーズケーキを大きく一切れカットすると、頬張った。

 今、彼女の口の中は、さわやかで甘いレアチーズケーキでいっぱいだ。

 甘くておいしいもので、口の中がいっぱい。

 小さな癒しのひと時。

「適正価格、だいじかも。その人の技術や、技能に敬意を払う気持ちがあれば、滅茶苦茶な給与体系や、使い捨てみたいな働き方をさせたりしないはずだもの」

「そうなんですけど、その適正っていうのが、判断する人によって違ってくると、問題が起るんですよね」

「確かにね。理想と現実の乖離がはなはだしいのが、図書館業界ってこと」

「残念ながら」

 貝原沙羅は、ため息をついた。

「私は、公務員として勤務してて、そこからの出向なので、安定はしてるんです。こんなこと、現場では申しわけなくて言えないんですけど、就職活動の時は図書館にはエントリーしなかったんです。司書の資格はとってたんです。でも、募集してる所がほとんどなくて。それで、役所勤務をしながら、ボランティアで本のことに関われたらくらいに思ってて。そうしたら運よく図書館部署に配属されて、司書の資格を持ってたんで、かなりしっかり関わらせてもらえることになって」

「そうだったんだ」

「はい、そうだったんです」

「図書館の司書の正規雇用って、ほんとに少ないよね」

「もう、どこを見ても、数えるほどなんですよぉ」

 胸に溜めていたことを話して解放できたからか、貝原沙羅の口調が以前に戻った。

 学生時代は、むずがゆいようなじれったいような気がしていたが、くつろいだ気分が伝わってきて、今はそれも悪くなかった。

「同じ職場で同じ職種で同じように働いているのに、受け取れるものが違うのって、何かにつけて気をつかうよね、お互いに」

「そう、そうなんです、お互いに、なんです」

 彼女は、肩をすくめて、グラスに注がれたレモン風味の水を口に含んだ。

「それでですね、先輩、きいてください」 

 それから彼女は、堰を切ったように話し出した。 


 図書館の運営方法や司書の勤務形態が問題になっているのは、webニュース等で目にして知っていた。 同じ所で働くのに業務形態が違うというのでは、それはスムーズにはいかないだろう。 よほど有能な采配をふるえる上司がいない限り。

 もちろん、公立図書館で雇用条件がきっちりしていて、市区町村の直接雇用であれば、正規、常勤、非常勤、パートタイム、アルバイト、多様な働き方はむしろ働く側からも望まれる場合もあるだろう。けれど、そこに指定管理会社や業務委託会社などが入ると、身動きがとれなくなりがちなのだ。

 システムとして整備され調えられていればいいのかもしれないが、それでも、何かをするのに直接雇用先にではなく会社にきいて会社から雇用先にいってもどってを繰り返すというのは、とうてい合理的とは言いがたい。時間の無駄だ。さらに、現場責任者の権限が請負会社によってまちまちだと、それも混乱を招く。

 現場の細かなそうした問題の積み重なりが、ストレスを呼ぶ。 単純なことを複雑にすることで、やる気を削ぐようにしているようにしか思えない。そうするのは、責任の所在の曖昧さのためだというのが透けてみえるのも腹立たしい。

「あ、すみません、こんな話、愚痴ですね、先輩、息抜きに来たのに」

「そんなことない。こんなにたくさん話したのって、初めてだよね」

 むしろ、うれしかった。後輩の意外な面をみたような気がして。ふわふわと、楽しいことだけを摘まんでやっているのかと思っていたら、そうでもなく、思いの外熱心に取り組んでいるのがわかって。   


 ティータイムを終えて、貝原沙羅と別れた後、館内を一回りしてから帰路についた。

 リアルの人間と話すと、なぜだかすっきりする。

 今日のように相手の話をきくというのは、思いのほか視野が開ける。

 おしゃべりは、自然に酸素をからだの中に取り入れることだ。

 話の内容で気持ちは落ちたり上がったりどんよりしたりそれぞれだが、口を動かして言葉を発するということは、酸素を吸って二酸化炭素を吐くことなので、空気の循環が脳で起きるから、すっきりするのかな、と思ったり。

 酸素が脳を巡って、濁った思考回路を洗ってくれるのかもしれない。

 それで、頭がすっきりする。

 人間の機能がそんなに単純なものではないことはわかっている。 

 それでも、そんな風に思ってしまう。

 もしくは、口から出た言葉が空気中に散らばって、頭の中でいっぱいになって溢れかえりそうになっていた文字情報が、整理されるからなのかもしれない。 

 なんだか怪しげな科学現象のような気もする。

 それでもすっきりした気分になるのだから、馬鹿高い料金がかかるわけでもないので、許容範囲のプラセボかな、と、微苦笑する。 

 ただし、あまりに不快な内容の話だと、気持ちの重さに負けてしまって、すっきり感が全て台無しになることもある。 

 執筆は孤独な作業だ。とくに、確約のないそれは。確約のない作業に根を詰め過ぎると、精神こころが蝕まれていく。 兼業作家でいると、自分の生活は保証される。 けれど、その保証が、自分の甘さにもつながっている。 わかっているのに、踏ん切りがつかない途上の自分に歯噛みする日々。そんな日々の連続では疲弊する。

「あなたの担当ではないから、あまり期待してもらうわけにはいかないけど、学友としてだったら話はきくから、何でも言ってよ、そう、ゼミの時みたいに」 

 ゼミ友で今は編集者の井間辺和子(いまべわこ)の言葉がよぎる。

 表だっては牽制しているようでいて、実際はその時の最善のフォローの言葉をかけてくれる。

 その時の私は、まだ、意を決する途上だったこともあり、具体的な言葉を欲していた。

 それが、どんなにか世間知らずでわがままなことだったのか……  今なら、それがわかる。

 井間辺和子の真っ当な気遣いと友情。 

 本当に、素直に感謝できる。 

 「たまには、手料理でも差し入れしようかな」

 いつも忙しそうにしている彼女に、ささやかなお礼の気持ちを表明したくなった。

 つい外食や中食が多くなって、胃も舌も悲鳴をあげていると言っていた。

 自宅住まいで冷蔵庫の食材というベースが、私には揃っている。

 そうだ、貝原沙羅が言っていたシベリアのウドン粉料理を作ってみよう。

 それから、井間辺和子に連絡して、休日にケータリングでご馳走すると言おう。そして、突拍子のなさに呆れられてもらおう。 それから、彼女に、少し笑って「わかった、で、何時頃?」と、訊き返してもらおう。

 空はいつしか、茜色の夕闇から群青の宵闇に。

 時はうつろう。

 立ち止まろうが、足掻こうが。

 紅茶と木イチゴのジャムとぺリメニのケータリング。

 休日は、画面と向き合うのをやめて、友と言葉を交わし食事をする。

 その時間は、ただのうつろいでは、きっと、ないのだ。 




 了




<本作の主な登場人物>

凪田 真帆子(なぎた まほこ) 「私」。旧友との再会をきっかけに小説家志望の夢が再燃。

貝原 沙羅(かいばら さら)  「私」の大学時代のサークルの後輩。現在公立図書館に出向中。



<本編>

『サルビアとガーデニア 小説家志望の彼女と私』

(第5回カクヨムWeb小説コンテスト中間選考通過作品)